はじめに
こんにちは、風の子です。
当ブログは、母との共依存関係に気づいた私が、その脱却に向け奮闘する様を記録しています。
今回は、母との共依存関係が作り上げられた原因を探るため、
私の生い立ち②(青年期)について振り返っていきたいと思います。
生い立ち①幼少期については、こちらの記事で振り返っておりますので、良ければ先にご確認ください。
不仲両親の喧嘩
私達子供が小さいころには隠れて喧嘩をしていた両親ですが、
だんだんと私達の前でも喧嘩をするようになっていきました。
また不仲がベースの状態ですので、両親が揃う場において常に母は不機嫌でピリピリとした空気が流れていました。
“かわいそうな母”と”ひどい父”爆誕
両親が目の前で喧嘩をすることが増えていき、喧嘩のたびに母は泣くので、
子供の私は「泣いているお母さんかわいそう!」と思うようになっていきました。
泣いている母の話を一生懸命に聞き、慰めます。
そして私の中で、“かわいそうな母”と対比的に”ひどい父”が爆誕するようになりました。
また、毎回母の言い分しか聞かず、父の話は一度も聞いたことがなかったので、
そのこともさらに”かわいそうな母”と洗脳されるのに拍車がかかったのだと思います。
母との共依存関係の始まり
私には兄、妹がおり、幼いころは、兄も妹も私と同じくらい母をかわいそうだと思い、
一緒になって母を慰めたり、手紙を書いて励ましたりしていました。
しかし中学生くらいになると、兄は思春期で自室にこもることも多くなったため、
あまり父と母の問題には首を突っ込まないようになっていきました。
それに加え、私が中学生の時に病気になってしまい、
入院中毎日お見舞いに来る母と私の結びつきが、とても強くなっていきました。
大人になってから妹に、「当時、母と姉の仲がとても良く、自分の居場所がないと感じたことがある」と打ち明けられたことがあります。
このころから、私と母は本当に仲の良い、友達のような親子に成長し、私は母の絶対的聞き役に成長していきました。
そして私と母は共依存関係になっていったのです。
「ノー」と言えない”いい娘”に
母と結びつきが強くなり、母も私にだけ父の愚痴をこぼしたり、相談することが増えていきました。
そうすると、「他の兄妹には相談しないのに私にだけ話してくれる」という優越感のようなものも手伝って、私はより一生懸命に母の話を聞くようになっていきました。
母に対し、「ノー」と言えなくなっていた私の代表的なエピソードをご紹介します。
ある日、高校生でテスト期間中であった私は、帰宅後一刻も早く勉強に取り掛かるつもりでした。
田舎済みの私は、駅でいつものように迎えに来てくれた母の車にいそいそと乗り込みました。
しかし、家に着いて車を降りようとしたとき、突然母が号泣し始めました。
「あ、また父と何かあったんだな」と思った私は「どうしたの?」と話を聞くことにしました。
この日父は仕事が休みで家に居たので、再び車を走らせ近所の公園に行くことに。
公園の駐車場で長い間号泣する母の話を聞き、ひたすらに慰める私。
しかし、頭の中ではずっとテスト勉強のことが気になって仕方がありませんでした。
そんなにテスト勉強がしたいなら、母に言えばいいじゃん!とお思いかもしれませんが、
私は母に対して「ノー」と言えなくなっていたのです。
この頃の母は本当にすぐ泣いていましたし、ずっと体調も悪そうだったこともあり、
ここで私が拒否したら、母は崩壊してしまうかもしれないという恐怖感があり、
私にとって母のメンタルケアは絶対に最優先すべきものになっていたのです。
こうして、自分の気持ちよりも母のメンタルを重要視するうちに、
自分の気持ちや意志を抑圧するようになっていきました。
まとめ
今回は、私の生い立ち(青年期)について振り返ってみました。
当時、母は本当に”かわいそう”だと思っていましたが、
今色々と勉強をして思うのは、母は無意識的に”かわいそうな母”を演出することで、
子供を自分の聞き役、慰め役さらには味方という最高のカウンセラーに仕立て上げ、
コントロールしていたということです。
(無意識というのがまた厄介ですよね泣)
そうしてコントロールされるうちに母と共依存関係になっていった私は、
徐々に自分の気持ちを抑圧するようになっていったのですね。
次回は、母と共依存関係に陥った私が、親元を離れどう変化していったかを振り返りたいと思います。
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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