はじめに
こんにちは、風の子です。
当ブログは、母との共依存関係に気づいた私が、その脱却に向け奮闘する様を記録しています。
今回は、母との共依存関係が作り上げられた原因を探るため、
私の生い立ち(幼少期)について振り返っていきたいと思います。
不仲の両親
私が小さいころから、両親は不仲でした(離婚はしていない)。
物心がついたころから、両親は喧嘩をしており、両親が仲の良いところを見た記憶はありません(汗)。
子供が小さい頃は、目の前で喧嘩はしないように一応配慮していたのか、
私達子供(兄、私、妹)が2階の寝室へ行き寝静まった後、両親は1階で怒鳴り合いの喧嘩をしていました。
しかし、子供は気づくもので、親の怒鳴り合いの声に反応して起きてしまいます。
ここで、私の幼少期ナイトルーティーンをご紹介します!(笑)
2階へ寝に行き布団のなかでウトウト
→1階から聞こえる両親の怒鳴り声で起きる
→階段の途中まで降りて、両親の様子を息を潜めて見守る(時々兄妹も出てきて集う)
→両親は怒鳴り合ったり、時には物を投げ合い大喧嘩!!
→ことの顛末をばれないように見守る(私の心は極度の緊張状態)
→途中で心が耐えられなくなり寝床に戻り、布団を頭まで被り、両親の声が聞こえないようにシャットアウト
→怖くて泣き、疲れて寝る
今振り返ると、結構切ないナイトルーティーンですね(汗)。
これを繰り返すうちに、私には大人の大きな声が脅威となり、
常に過緊張状態でビクビクするように育ちました。
保育園でも、先生が怒りそうな雰囲気をいち早く察し、察した時点で怖くて泣いてしまう(しかも怒られるのは私ではなく他の子)ように。
ここで世間での「いい子」な私が完成したのですね。
まとめ
今回は、私の生い立ち(幼少期)について振り返ってみました。
両親の喧嘩に日々曝されるなかで、常に過緊張状態かつ「いい子」であろうとする私が作りあがったことがよくわかります。
ここから、どう母との共依存関係につながっていくのか、
次回は生い立ち(青年期)における、母の絶対的聞き役に成長するまでを振り返りたいと思います。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
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