生い立ち③大学時代~親元を離れる~

生い立ち

はじめに

こんにちは、風の子です。

当ブログは、母との共依存関係に気づいた私が、その脱却に向け奮闘する様を記録しています。

今回は、母との共依存関係が作り上げられた原因を探るため、

私の生い立ち③(大学時代)について振り返っていきたいと思います。

これまでの生い立ちについては、以下の記事で紹介していますので、良ければ先にご確認下さい。

大学進学を機に親元を離れると決める

母に対して「ノー」と言えず、共依存関係に陥っていた私ですが、

漠然と大学進学では「親元を離れたいなー」と思っていました。

私の高校では他県の大学に行く人も多く、親元を離れることに抵抗がなかったこともありますが、

自分でもなんとなく「自由になりたい」「ここで自立しないとまずい」と思っていたのでしょう。

他県の大学といっても沢山ありますが、その中でも私が選択したのは、

飛行機の距離にある、実家からはなかなか行くことのできない所でした。

志望動機を親に伝えるときには、なんとなくの憧れや学力的なことで伝えていた私ですが、

無事志望校に合格し、大学内で「なんでこんな遠い所に進学してきたの?」と友達に聞かれたとき、

親がすぐに来れない土地が良くて選んだよ

と口をついて出たことに自分でも驚き、

「あ、そうだったんだ、私は自立したかったんだ」と気付いた記憶があります。

ちなみに、当時進学先については、両親ともに私の選択に任せてくれ、反対などせずに応援してくれました。

(数年後母に、私の大学進学時には交通費やら色々とお金がかかったし、うちは経済的にその大学は無理!と言っておけば良かった!と言われ、申し訳ない反面傷つきましたが…)

しかし、この時親元を離れて本当に良かったですし、送り出してくれた両親には感謝しています。

自己肯定感の構築

大学進学後は、自分で選択したことですが母と離れたことが本当に辛く寂しく

最初の一か月は毎日泣きながら、母とスカイプをしていました。

しかし、色々な手続きを一人でこなしたり、自分で身の回りのことをしていくうちに、

「私こんなことも一人で出来た!すごい!!」と自己肯定感が高まっていきました。

また、徐々に心を許せる友達も出来、段々と母には話せないけれど友達に話せることも増えていきました。

自分でも「母に話せない話ってあったんだ」と驚いたことを覚えています。

しかし母との関係は良好なままで、月に一度程度は母と長電話をしていましたし、

帰省から帰ってくると、しばらく寂しく心にぽっかりと穴が開いたような感覚になっていました。

母から離れて得た気付き

母からの電話で、相変わらず父の愚痴を聞いていましたが、

ある日突然、「あれ、私、父側の言い分を聞いたことがないな」とふと思ったのです。

特にそう思ったきかっけはなかったのですが、物理的にも心理的にも母との距離ができたことで、

周りを見られるようになったのでしょう。

それと同時に、

父が悪いとずっと思ってきたけど、父から私たちはどう見えていたのだろう。

ずっと母と一緒になって父を悪く言い、時には母を庇うためきつく当たったり…。

もしかして私、父にすごくひどいことをしていた?

と、急に父に対する罪悪感がふつふつと湧き上がってきたのです。

父への接し方への変化

父に対する罪悪感を覚えてからは、今まで冷たくしていた父の態度を強く後悔しました。

そして、今まで両親の喧嘩時には、母と一緒になって父を責めることが多かった私ですが、

父の言い分も聞き、二人の仲を取り持つような役割に変化していきました。

しかし、母の前で父の話ばかり聞くと母は不機嫌になってしまうので、

母の機嫌を損ねないよう細心の注意が必要でしたし、

母と二人でいるときには、変わらず父の愚痴を聞いて、「大変だね」と共感することも忘れませんでした

まとめ

今回は、私の生い立ち(大学時代)を振り返ってみました。

親元を離れたことで、今まで抱いていた“ひどい父”という思い込みが崩壊したのですね。

母との関係性について振り返ることはできなかったものの、

父への認識を改められたこと、また物理的に距離ができたことから、

この時期は母との共依存関係は少し緩んでいたと思います。

次回は、緩んでいた母との関係が、再び強固な共依存関係に戻ってしまうまでを振り返りたいと思います。

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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